○172日目 お母さんを想う

5ケ月19日目。
私のお母さんは食べ方が汚なかったが、
今日その理由が分かった気がした。

幼少期の苦い思い出

私のお母さんは食べ物をぽろぽろとこぼす。
取り皿に取るときにこぼす。
口に運ぶときにこぼす。
それを犬が食べる。

幼少期から、そんなお母さんに
「もう仕方ないんだからーーー!」
と、私の心の感情は、お母さんに対して可愛さ30%、嫌悪感70%だった。
だらしないなーーーと思っていた。

他にも、一緒に市民プールへ行けば、ぴちぴちの水着を着てくるし
(お肉がはみ出ていた。)
オシャレなカフェに行けば、帰るときに自動ドアに顔面からぶつかるし
(透明で見づらかったけれども。)
とにかくおっちょこちょいで少しだらしがないというか、オシャレにも無頓着だった。

思春期の私。
そんな母親にどんな反応だったかというと
「恥ずかしいから着替えてきて!!」
と言ったり、嫌悪感を出していたように思う。
とにかく今思い返せば、とても冷たい態度を取っていた。

それでも母親はユニークな返答で家族を笑わせていたと思う。

話は変わり、今日の出来事

いつものように朝ごはんを食べていた。
主人は食べ方が綺麗で、
「綺麗に食べてくれて嬉しい。」
と伝えた。
すると打ち返された言葉は
「みくさんは茶碗にご飯粒残ってて汚いよね。」
だった。

小さい頃は
「ご飯粒残すと目が潰れるよ」
と言われて育った。
(岐阜県出生地だが、東京にもこのような迷信があるのだろうか。)
はずなのに。

最近、食事の時にりつきばかり見ていたら、慣れているはずのことができなくなっている自分に気が付いた。
「笑っているかな。」
「楽しそうにしているかな。」
「寂しい思いをしていないかな。」
「脳の発達のためには、たくさん話しかけた方が良いかな。」
「バウンサーから落ちてないかな。」
「なんて言っているのかなー。」
りつきの安全はもちろんのこと、発達のことや、この瞬間幸せかどうかとか。
一瞬も頭からりつきのことが離れないのだ。

母のことを思い出す

そういえば、私の母親はいつも私たちのことを見ていた。
「お茶いる?」
「ティッシュいる?」
「体調悪い?」
「楽しんでる?」

自分の姿や態度よりも、私や弟や父親に気を遣っていたことに気が付いた。
「母親になればわかる。」
と叱られたことがあっても、そんなん母親ではないんだからわからないよ。
と理解しようとしてなかった。

そんな母親に冷たい言葉や態度で当たっていた自分がいかに小さかったことか。
今更後悔したところで、時間は戻って来ないし、言った言葉を取り消すこともできない。
実は母親は心に棘が刺さったままかもしれない。

まとめ

視野は狭い母親だったかもしれない。
でも今はそんなにたっぷりの愛情を注いでくれたことに感謝しかない。
思った時に伝えないと、人生何があるかわからないから、今伝えてからブログを書いている。
母親に刺さった棘は、何本か抜けただろうか。。

これからは食べ方気を付けよう。
りつきも見ているからね。

あと学んだことがある。
上っ面の慣れというのは一瞬で壊れるということ。
どうやったら綺麗に食べられるだろうとか
表面だけの理解ではなく、何事も深く理解して慣れることが必要だと思った。

習慣というのにも深さがあるようだ。

りつきには深く理解して習慣づけてもらいたい。
どうやったら綺麗に食べられるかな?
と、ゲーム感覚で教えたらどうだろう。

何事も自分の育児にも応用すべき事柄なのだな。

おわり

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